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日記です。文章をテーマとすることが多いですが、その他もろもろ。

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 17世紀後半に、伊賀流の忍術兵法書が書かれた。忍術の基礎や忍者が使った道具について言及している、忍者にとってのバイブルである。その書を『万川集海』という。細い川もいくつも集まればやがて海になる、という意味である。
 
 伊賀、甲賀の忍者と言えば江戸時代を通じて活躍したように思われるが、実際は江戸時代の初期に伊賀忍者がストライキを起こして、以来実質的にただの門番になってしまっている。間諜組織が再結成されたのは八代将軍吉宗の時代だが、このときにはお目見え以下の御家人が中心となっていたそうで、かつての伊賀・甲賀の忍者たちは伝説の中にだけ存在することになった。
 
 『万川集海』が表されたのは、吉宗が生まれる10数年前である。つまり、もういい加減伊賀の子孫に間諜活動は期待されなくなった時期である。実際、先祖から受け継いできた忍びの技も絶えそうになり、危機感をもって書かれたのではないか。これは私の勝手な推測である。
 
 筆者藤林左武次保武は伊賀忍者の子孫であるが、おそらく自分たちひとりひとりの力の卑小さに歯がみすることもあったろう。或いはまた、先祖伝来の技術の膨大な体系が、日常の地道な訓練によって初めて編み出されたことに畏敬の念を抱いていたろう。
 
 ひとりひとり、ひとつひとつは小さな人間、小さな努力だが、それらが集まり積み重ねられたとき、どれほどの大事業が成し遂げられるか。
 
 今、インターネットの世界でも似たような構造ができあがっている。検索エンジンでの表示順位を上げるために、多くのサイトからのリンクという「川」を集め、「海」にする仕組みだ。
 
 すなわち、多くの被リンクを受けたサイトの表示順位は上がる。企業サイトにとっては表示順位の上下は死活問題にもなりかねない重要事である。
 
 しかし川の集め方には不正な方法もあるらしい。全く意味をなさない文章を羅列しただけのブログを機械的に大量生産し、リンクを張るという手法である。これは一種のドーピングである。読むに耐えない文章どころではなく、そもそも地上の人間は誰ひとり読めない文章を垂れ流すことは、一時的には利益につながっても長い目で見れば自分たちの首を絞める事になるだろう。
 
 これに対して、きちんとした文章レベルを保った「川」を多く集める手法が編み出された。
 
 ブログ媒体に特化した大阪の広告代理店、株式会社サイバーネットワークスの「サイドバーSEOパッケージ」である。
 
 サイバーネットワークスは大阪にあっては唯一のブログ広告代理店である。同社が扱うのはブログ広告のみ。
 
 ちなみにある検索エンジンで「広告代理店 大阪」と入力すると、同社は1頁目に登場した。「広告 大阪」でも同じ結果が出た。数多い大阪の広告代理店の中にあって、ブログ広告にとどまらず、広告代理店というジャンルでトップレベルの位置を保っているのだ。
 
 「サイドバーSEOパッケージ」の優れた点は、同社が運営しているブログ広告.comに全国から応募してきた3万7千人ものブロガーを動員できるという点だ。クライアントに対して誠実に書いた「川」のようなブログを何万も集めて「海」とし、この海からの被リンクを、クライアントが最も大事にしているピンポイントのサービスへ流し込むのである。
 
 今や、ひとりひとりのささやかな「川」は集まり方によっては巨大な「海」に成長できる時代になっている。そのパワーはマスコミを超えるかも知れない。今世紀はおそらく、この『万川集海』パワーを制する者が、勝利者となるのだろう。サイバーネットワークスが勝利者になれるかどうか、それはまた今後の経営における鍛錬の地道な積み重ねなのだろう。これもまた『万川集海』である。
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 書くという行為は素晴らしい脳の運動である。思考を抽象化し文という一定の型に結晶化させ、その配置を工夫しより効果的に文意が立つように構成する。この過程では大脳新皮質がフルに活躍する。しかも旧皮質に宿る様々な欲が昇華され、これが新皮質の背中を押すことにより読後感のある文章を産み落とすのである。渾身の力をもって満足の一文を成したときには、スポーツ後のごとき清涼感を味わえる。
 
 しかし必要もないのに文章を書くということは、なかなかできない。文章は必ず読者を想定する。誰に見せるわけでもない日記であったとしても、その読者は自分自身である。だが、自分はすでにその出来事を経験しているので、いまひとつ読者としては物足りない。日記が続かない理由のひとつはここにある。
 
 だが、誰かが読んでくれる日記ならどうだろう。自分の生活をさらけ出したいという欲求などではなく、自分の文章を読んでもらえるという喜びで、書き続けられるであろう。ブログがこれほどまでにインターネット上で隆盛を極めているのもそのためだと思える。
 
 文章を書くのは楽しい脳の運動である。しかし、なんらかの動機付けがないと楽しさは半減する。この動機付けが効果的になされると、ひとはますます楽しく言葉をつむぎだし、文章を生み落とすだろう。もしも 適度な動機付けとそれによる執筆という生産行動をうまく結びつける場があれば、誰もがもっともっと文章づくりを楽しめるだろう。そういう場があるだろうか。実は、ある。

 近年、インターネット広告は従来の広告媒体よりも強い集客力をもつようになってきた、しかもブログの隆盛に伴って、ブログを経由した口コミのもつ宣伝効果を活かすブログ広告市場は年々急速に伸びている。このことに注目した様々な企業が、仲介の労をとるブログ広告企業を通じて、個人のブログに自主的に商品をテーマとした文章を書いてもらい、その対価としてブログ広告企業が書き手に一定のポイントを支払う仕組みが生まれた。

 中には例外もあるが、ポイントはある程度たまったら換金できる。その額は、少なくとも生活費にはほど遠いものであるが、自分が書いた文章が金になるということは、大きな感動と満足感を与えてくれる。
 
 しかし実は報酬だけがブログライティングの魅力ではない。たとえば、ブログ広告.comでは、もちろん採用になったブログに対しての報酬も用意しているが、さらなる動機づけの方法として、書き手のランクづけをしている。星がゼロから3つまで。当然文章の書き手としては、三つ星を目指していいものを創ろうと思う。
 
 しかもブログ広告.comではブログに口コミ記事を掲載する「ブロガー案件」と、専用の投稿フォームから口コミ記事を投稿するだけの「ライター案件」の2通りのランクを用意している。
 
 文章を書き慣れてくれば、自分の文章力がどこまで評価されるかが重大な関心事になる。ブロガーとライターでは仮に同じテーマであっても書き方は違ってくる。主観性と客観性の配合比が異なる、と言うべきであろうか。

 この主客の配合比率を自在に変えることができるようになれば、おそらく書くことが楽しくて仕方ない、という境地に至るだろう。文章を書く事の真の報酬は、この喜びである。
 
 
 きゃつがトイレに向かうため居間を出たときだ。私はすぐに別室に飛び込み、かねて用意のものを取り出した。それはパンダの着ぐるみパジャマである。
 そそくさと着始める。きゃつがトイレから帰ってきたとき、そこにパンダ姿の私が悠然と座っているという演出になる。どうだ、驚くだろう。
「ば……馬鹿みたい」
 さすがに妻があきれた。
 馬鹿とののしられようとカバとほめられようと、私には私の筋というものがある。我が家に遊びに来てくれた遠路の友人に対して、なんらエンターテイメントな驚きを経験させないで帰すというのは、自分の中では許されないことなのだ。

 トイレから戻ったきゃつは私の姿を見て足を止めた。ぴくりと眉が動く。
「ほーう。そうきたか」
 そうつぶやくときゃつは、持参のバッグをあさり始めた。何をするのかと見れば、取り出したのは一枚のトランクスだ。ムエタイ用のパンツである。
「そういうこともあるかと思ってな、持ってきたのだ」
 偉そうにつぶやくと、堂々と、他人の女房の目の前でズボンを脱ぎ始めた。
「そんなん、見たくない!」
 女房が抗議するが、きゃつは全く意に介さず、ついにトランクス一丁のムエタイ姿となった。
「どうだ」
 勝ち誇るきゃつを前に、私は腕を組んでうなった。
「うむむ。今日のところは引き分けにしておいてやろう」

 きゃつは夏休みを利用して、大東流合気道の合宿に参加するためこの地に来た。1週間の猛修行あけで、今日は我が家に泊まりに来てくれたのだった。なんでもこの合宿はイタリアの特殊部隊の隊長も参加するという、それはそれはとてつもなくハードなものだったそうな。
 きゃつとはパソコン通信(当時)のフォーラム仲間だった。小説書きのフォーラムで、きゃつは歴史小説や歴史評論を能(よ)くした。私はお笑いアクションという、全くマーケットのないジャンルのエキスパートだった。実戦空手(当時)の黒帯、というところも私と共通している。
 きゃつは無骨な外観どおりの無骨な男だが、意外なことに職業はシステムエンジニアで大手企業に勤めている。かなり優秀なエンジニアだ。韓国語と英語を母国語同様に操り、きれいな韓国人女性と同棲(当時)していた。破天荒な行動力をからくも理性で押さえつけ、現代社会に棲息能力をもつに至ったインテリ原始人、というのが私のきゃつに対するまだしも好意的なほうの評価である。

 こういう男だ。いまなお独身、というのもまた当然と言えば当然だろう。たぶん生涯独身を貫くか、90歳くらいになってから60歳くらいの女性をめとり、「ロリコン」と非難される人生を送るに違いない。
 男というのはこういう奴に、なりたいとは思わないがうらやましさを感じる。私もまたそのひとり。親や子どもがこうだと困るが、親戚にはひとりくらいほしいキャラクターである。こういうのを男、ではなく漢(おとこ)というのだろう。
 
 ちなみにこのとききゃつの膝は、幅3センチに渡り、生々しく肉が覗いていた。合宿稽古で肉が裂けたのだそうだ。しかし我が家に一泊したきゃつの口からはただの一度も「いてて」などという弱音は聞こえてこなかった。痛くないわけがないだろう。なるほど、これが漢(おとこ)というものらしい。



 
 ブログライターをやりはじめてわかったことがある。
ブログのプラットフォームによってかなり成果に差があるということだ。

とあるブログサイトは作ってから3日目にはサイトタイトルを入力すると検索エンジンのトップに表示された。
だが別のブログは、1ヶ月経っても全然反応がない。

これはブロガーの力量の問題とはまったく関係ない。ひとえに、そのサイトのSEO能力だと思う。

金をかせぐ、というよりは、自分のブログをたくさんのひとに読んでもらいたい、というのがブロガー、そしてブログライターの心底の本音だろう。かせぐつもりなら、他にもっと効率のいい方法がある。かせぐ、ということを自分自身へのいいわけにして、せっせと文章を綴るのが楽しいのだ。さもないとライターはできない。

せっかくの努力の成果の記事(作品)が、しかし誰にも読まれないというのは、著しくモチベーションを下げる。ブログサイトの構築は、結果を大きく左右するのである。


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 おもしろいサイトがある。エコチャンバラという。

 北海道の釧路市で開発されたスポーツである。

 ペットボトルを材料にして様々な武器もどきの道具を作り、これでチャンバラごっこをする。

弓もペットボトルで作ったらしい。かなりの熱意がないと、こうはいろいろな道具は作れないものだろう。

 エコチャンバラのエコとは、環境のエコロジー、あるいは経済性のエコノミーのエコ。

 
子ども放送局という、独立行政法人国立青少年教育振興機構が作っているインターネット番組でもエコチャンバラの作り方が紹介されている。

 あの『24時間テレビ』でも紹介されたことがあるらしい。

 おそらくスポーツチャンバラもヒントになっているだろうが、スポーツチャンバラが道具代が数万円もするのに比べ、エコチャンバラで自作すればほとんど金を掛けずに道具ができる。

 本当に子どもたちにチャンバラをやらせたいということなら、エコチャンバラのほうが理にかなっている。果たしてこの新しいスポーツは今後、大化けするだろうか。


エコチャンバラホームページ
http://plaza.rakuten.co.jp/ecochanbara/








 不思議なブログをいくつか見た。一定の文章量はあるのだが、読んでいっても、日本語として意味が通らない。同じようなタイトルのブログが、次々とアップされていて、どうもこれは機械的に「製造」されているのだなと気がついた。

 文章は創るものだが、造るものではない。創作であって製造ではない。

 なるほど、機械的に大量にブログを生産すれば、おそらくSEO対策にはなるのかも知れない。だが、そうとは知らないで読むほうにとっては迷惑この上ない。

 つまらない内容、賛成できない内容のブログならまだいい。評論や議論の可能性があるからだ。しかし、意味が通らない、文章ではなく記号のようなブログは勘弁してほしい。それならまだ商品案内ばかりのブログのほうが数段価値がある。

 このまま、無意味なブログが大量生産されていくと、読者のブログ離れが始まる(或いは進む)のではないか。せっかく我々庶民ひとりひとりが気楽に自分の意見を公にできる手法を得たのに、もったいないことである。

  去年から今年にかけて結構な損失をこうむったFXだが、この2ヶ月くらいはなんとかプラスで推移している。

 FXの最も怖いところは、自分の生々しい欲望が直接行動に表れるところだ。

 こうすれば勝つ確率が高く、それ以外はギャンブルになるからやめよう。

 そう自分でルールを決めているにもかかわらず、今やれば勝てるかも知れないと思って、先行きにあまり自信がなくても、ついつい手を出してしまう。

 そうすると、確たる自信がないまま勝負に望むので、ちょっとレートが逆にいくとすぐ損切りをして、結果として損切り貧乏になる。

 FXは禅なのかも知れない。己の欲望と向き合い、これをコントロールできなければ、あっと言う間にお金を失ってしまう。よく、FXに勝つには、テクニックよりも精神的な強さが必要だと言われるのもうなづける。


 ちなみにFXはレートが上がるか下がるかのふたつにひとつ。何も考えなければ丁半博打と大して変わりはない。何度もやっているうちに勝率は50パーセントに近づくはずだが、大部分のひとは負けてしまうという。それはこの、心理的なものが大きく左右している。

 FXを金儲けの手段としてではなく、修行として捉え直せないだろうか。

 ファミマ・ドット・コムから、アニマックスオリジナル「銀河鉄道999セル画入りスペシャル楯」が出た。
 
 なるほど、コンシューマーは我々の年代だ、と感心した。
 
『銀河鉄道999』は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にタイトルを似せたドラマである。もちろん中身は全然違う。
 
 メカニックデザインに執着する松本零時マンガのひとつの到達点、それが『銀河鉄道999』だと思う。
 
 なにせ「機械の体をもつ」ということが善悪含めてテーマの主要な柱となっている。
 
 機械の体、と言う事では、石森章太郎(後に石ノ森章太郎)の『サイボーグ009』がなんといっても日本SFマンガ史上の嚆矢ではあろう。(その前に、平井和正原作の『エイトマン』があり、これは実はサイボーグ的なキャラなのだが、まだ当時はサイボーグの概念がSF愛好者にすら難しかったことからスーパーロボットとしてエイトマンの設定を作った。その後に、『サイボーグブルース』という小説で平井はくすぶっていたものを吐き出したわけだが、ぜんぜん本稿と関係ないので説明は割愛)
 
 サイボーグ、というとかなり生々しい感覚がある。臓物のイメージがかぶさる。否応なく人間ドラマがどろどろ生まれそうだ。
 
 そうではなく、単純に、機械と人間という対立軸と調和の可能性を問おうとしたのが、松本の『銀河鉄道999』ではなかったか。その意味では手塚治虫の『鉄腕アトム』の心底のテーマの後継作品が『銀河鉄道999』だったのかも知れない。もちろん、作者同士は後継だとかなんだとかは考えていなかったろう。
 
 『銀河鉄道999』を子どもの頃に見た者は、『鉄腕アトム』や『エイトマン』『サイボーグ009』は直接経験していない。だが、『銀河鉄道999』に至る前に積み重ねられた日本SFマンガの底に流れる言いしれぬ寂しさ、人ならざる者の哀しさを、行間(コマ間?)から感じた事だろう。
 
 それは若き日のみに許された感傷でもある。虚空の現実である物語に感情移入できるのは、若者だけに許された特権である。(中年になってまだ感情移入できる私も、戸籍年齢はともかく、若者である)
 
 その感傷を残す者たちへのプレゼントのひとつが、「銀河鉄道999セル画入りスペシャル楯」だろう。ある程度資力を得た年代が買いそうだ。私ならどうだろう、113話「青春の幻影・さらば999」の楯に興味を惹かれる。


 
 ドラマの中のセリフだけで言えば、青春の幻影とはメーテルのこと。
 
 松本マンガに必ず登場する美女顔であり、なかなかそこいらへんにはいない。(私の職場にはいた。いやもうすごい美人だったが……)
 
 この、青春の幻影を、ただ、きれいなおねーさんにあこがれる若者のイメージ、と捉えると大事なものを見失う。
 
 本当の青春の幻影とは、『銀河鉄道999』そのものを言うのである。未知の世界へのあくなき探求。その底には、希望の光(このドラマの場合は機械の体、だったが)を求めることが動機づけとなっている。すなわち、終わりのない戦いと旅。それは我々すべての人生でもある。
 
 我々が『銀河鉄道999』に感激するのは、そこに我々のこれまでとこれからを投影するからである。幻影と知りつつも、求める何かを、常に我々はもっているはずだ。




 
”銀河鉄道999”のつづきはこちら
  テレビの液晶パネルの中で、精悍な若武者が空手着に身を包み、気合いを発していた。30年前の私だった。

 今では市民権を得たが、当時は邪道視されていた極真空手の県大会。しかし県内にはテレビ放映され、それを録画したものが、わが青春の思い出として、我が家に眠っていた。

 家の大掃除。いやいやお片づけを手伝っていた中学生の長男がビデオのタイトルを見て興味をひかれ、再生したのだった。

「これ、お父さん?」

 もーーーーのすごく怪訝な顔で私を見た。

 私自身も驚いていた。30年前の私は、今の私にはあまり似ていない。むしろ似ているのは、長男のほうだった。いや、長男が空手着をつけて戦っていると言ってもいいほどだ。

「うん、そうだな」

 続けてコメントしようと思ったら、長男はテレビに釘付けになった。その中にいる昔の私が、相手を左ハイキックでKOしたのだ。相手は瞬間的に意識を失い膝から真下に落ち、状態が後ろにのめって倒れた。これは、かなり危ない倒れ方だ。

 そのとき、私の記憶は昔に戻った。

 課題があった。若き日の私には。

 左右の手足に均等の役割を与えるのが空手の考え方で、それは伝統流派も実戦流派(と言っても当時は極真会しかなかったが)も変わらぬ真理だった。

 その意味は充分私も理解した上で、試合用の技として私は手足計4本に各々専門的な役割を与えようとしていた。

 左の拳は相手の動きを止めるための突き。右の拳は相手の水月(みぞおち)をえぐるための決め。左の足はジャブのように相手の動きを牽制し、右の足は相手を吹っ飛ばす力積ある必殺技。

 各々役割を特化して鍛えることにより、全体をまんべんなく鍛えるよりも、短期的には強くなるはずだ。

 これが私の課題だった。

 どれほど努力してもその上を努力する本部職員には勝てない。ならば、専門性を高めれば勝てるかも知れない。

 そうふんぎりをつけての稽古方針だった。そしてそれなりに努力した。

 稽古の結果を試す場がこのときの県大会だった。

 30年たった今の空手も、キックも、ムエタイも、あまり重きを置いていないのが現状だが、左、というよりは組手構えでの前に出ている足が、実は最強の技を放てるのである。

 なぜなら、構えの前に出ている手足というのは、バックスイングしない限り、その動き(技の起こり)が相手からは全く見えないからだ。この理合いに最も近い技術体系が日本拳法であり、だから日本拳法からは時々ボクシングやキックでとんでもない化け物が出る。

 それはともかくとして、(当時)なんでもありの極真会の一員として、私は既存の体系にとらわれない技の組み合わせで県大会に臨んだ。

 相手は黒帯(初段)こちらは茶帯(1級)。

 相手の出鼻を左前蹴りで押さえ、なおも前に出る。相手はなにくそとプレッシャーをかけてくる。瞬間、ジャブのつもりで私は左前脚をはね上げた。続いて右の下突きで相手をKOするつもりだ。ところが、左足がはね上がった直後、相手の姿が視界から消えた。

 そう、真下に落ちて倒れたのだ。

 単なるジャブのつもりだったが、手と足では、同じジャブであっても力積(スピード×重さ)が全然違う。結果として、相手はかなり危険な状態で意識を失ったのである。

 やった……という感慨はなかった。

 その瞬間には何が起こったのかわからなかったからだ。

 だか徐々に状況を認識した。どうやら成功したらしい。「機能分化」の方針が。

 勝ってうれしい、というレベルではない。たまたま勝つこともあるし、力量が上の場合は勝ち方を仕込んだとおりに勝ことも珍しくない。だが、私は勝つための方程式を考えそのために努力し、実証実験をした結果同等以上の力量の相手に勝ったのだ。たまたま勝ったのではない。ほっとした、と言うべきだろうか。本当に決まった瞬間には、人間はほっとするものだ。ガッツポーズが出る勝利はまだ底が浅い。

 気がつくと、昔の私そっくりの顔をした長男が、らんらんとした目つきで空手のビデオを見ていた。

 やれやれ、こいつもまた、俺と同じ血が流れているんだなあ。

 なんとなくくすぐったくも嬉しい感覚に身を任せていると、二階から声がした。

「ちょっと、静かだけど、片づけしてるんだよね」

 妻からだった。

「もちろんだよ」

 私と長男は、そそくさと、お片づけを再開した。
 



 
  体操着に身を包んだ一団が床運動用マットの上に登場した瞬間、体育館中に失笑が響いた。
 
「おい、男の新体操だとよ」
 
 私の横にいた同年代の男子が困ったような顔をして隣の者に言った。言葉には出さないが、私も困惑した。
 
 男子新体操。
 
 ほんの数年前に「新体操」というジャンルがあることを知ったがそれは女子がやるものではなかったか。わが体操部にも新体操をやる部員がいるがそれは当然、女子だった。
 
 ……今から35年前の出来事だ。
 
 当時私は体操部員で地区大会を勝ち抜いて県大会に出場していた。もちろん器械体操で、だ。
 
 オリンピックで女子新体操が採用されて間もない時で、新体操に男子があるとは、体操の入門書でわずかに知るだけだった。
 
 県大会でも男子新体操には2チームが出たのみだ。男子新体操団体競技は、社会どころか体操界にもさほど浸透していなかった。
 
 一体どんな事が起こるのか。固唾を呑んで一同見守る。いずれも器械体操には腕に覚えの猛者ばかりだが、怖いもの見たさで誰も体育館から離れられない。
 
 その時の演技は、タンブリング(跳んだり跳ねたり、という床運動の跳躍系の回転・ひねり技)で言えば後方抱え込み宙返りをみんなでやったというだけで、難易度はかなり低かった。バレエで言うスプリットジャンプ(跳びながら前後開脚する技)を男どもが一斉にやったときは、失笑はさらに大きくなった。あれは女がやるもんだ、というのが当時の男子体操部員の常識だったからだ。
 
 しかし私は不思議な感動を覚えていた。全員が一糸乱れぬ動きをすることで、なんとも言いようのない美が生まれていた。女子団体演技は曲線の美であり、男子団体演技は直線の美である。このジャンルは、それなりに面白いかも知れないな、と感じた。
 
 それから35年が過ぎた。最近、テレビなどで男子新体操が取りあげられるようになって、一般の知名度は徐々に上がっている。そんな矢先、なんとWEB上で男子新体操の演技が見られて、しかもそれを採点できるというイベントが登場した。
 
 カルピスソーダカップである。演技は動画で撮ってエントリーする。いわば書類選考だけの大会だが、考えてみれば一発勝負ではないから、各々の団体の一番いいところを披露できる。もちろん専門家の採点もあるが、WEB上で映像を見た一般人も採点して報告できる。
 
 もちろん私はすぐに全演技を見て、採点した。仮にも器械体操経験者なので、審査基準である「はじけ度」ではなくて、徹底的に器械体操の技術、プラス団体競技としての完成度、さらには技の構成難度を自分なりに評価した。
 
 今の体操競技の床はロイター式と言って、やたら跳ねる。だからだろう、参加選手の多くはタンブリング系は相当なところまでできていた。やる気になれば抱え込みのダブル宙返りくらいは軽くいけそうである。スワン(伸身宙返り)のダブルはちょっと無理かも知れないが。
 
 このカルピスソーダカップには一般の部門もあり、幼い兄弟がお部屋の片隅で一所懸命演技したり、経験者らしきおっさんチームが、アキレス腱断裂覚悟で必死の演技を披露するのを見て、感動のあまり思わず涙した。参加者、そして関係者の努力に思いを馳せたのだ。
 
 もともと器械体操はマイナー中のマイナーである。たとえば野球やバスケットボールは、愛好者も多い、下手なりにやって楽しめる。だが器械体操・新体操は、下手の横好きが存在しない世界だ。技はできるかできないかのふたつにひとつ。できた人間は楽しいができない人間は競技を続けられない。

 さらに言えば、アメフトみたいに頂点に行けば億の金が転がり込むわけでもない。スポーツのメジャー化に必要な要素。「下手なりにやって楽しい」「難しいけど上に行けば金になる」のふたつが徹底的に欠落している。設備に金がかかるわりに競技者が少ないから行政もあまり金を投入できない。メジャー化しないスポーツのナンバーワンだろう。これに比べればカバティあたりなど、まだまだメジャー化の素質をもっていると言える。
 
 子どもの頃、側転に挑戦した、できた、うれしい。このうれしいの感覚に取りつかれ、次々と難しい技をこなすようになって、ついにやめられなくなったなれの果てが体操選手である。一種の中毒だ。しかし、麻薬と違うのは、やった人間が不幸になることはないということである。ちなみに私の女房も元器械体操選手である。
 
 器械体操ですらマイナーなのに、さらに一歩上をいくマイナーが、男子新体操である。しかしそのマイナー競技を、WEB審査で一般人を巻き込むまでに引き上げてくれた。
 
 スポンサー殿にも心から感謝したい。おそらくもっと派手な競技も検討の俎上に上がっただろうに。同じ体操選手にすら最初は白い目で見られていた男子新体操を選んでこのような企画を実行していただけたのは、感激である。我が家はこれからカルピスソーダをメインの飲料にしよう。
 
 読者にお願いする。この、圧倒的に不利な立場にある超弩級マイナースポーツを応援いただきたい。応援の方法は、カルピスソーダカップのWEBページから、各チームの演技を見て、採点することである。思わずうなる名演技から、大爆笑の迷演技まで多数エントリーされている。感動することを受けあおう。


カルピスソーダカップ

 
  吾輩は猫である。名前は『なる』という。今年2歳となるれっきとした雄猫である。
 
 吾輩の一日は吾輩を世話する努めを持つ、我が家人達を起こすところから始まる。吾輩にかしずかねばならぬ立場であるにも関わらず、いずれの者も遅くまで褥から立とうとせぬ。実にけしからん。

 まずは最も年長の雄の「お父さん」なる者に取りかかる、顔をべろりと嘗めてやる。吾輩の舌はちょっとした凶器である。こすられるとかなり痛い。
 
 だが、お父さんなる者は一向に起きようとせぬ。なんたる鈍感か。そこで吾輩は顔をぶったたくことにした。左手を素早く突き出し、いわゆるジャブの要領でお父さんを攻撃するのである。ただし、爪は隠しておく。まさか寝ている相手に本気のパンチを出すような大人げない真似はできようはずもないからである。

 だが、お父さんは「うむむむむ」と言いながら寝返りを打った。これこれ、ひとが優しくしているうちに起きるが良いぞ。

 しかたない、吾輩は反対側を向いたお父さんの顔の前まで回り込むと、右手にわずか爪を出した。さながらX-MENのウルバリンのようなものだ。

 ぬん。

 わずかに出した爪で軽くお父さんの顔をひっかく。怪我はさせないが、痛みはあるぞという加減だ。すると
 
「この野郎!」

 いきなりお父さんの右前足のパンチが飛んできた。吾輩の横顔面を襲う。足を踏ん張る間もなかった。吾輩は宙に飛ばされて襖に激突した。しかし空中で身を翻して軽やかに立ったのは、我ながらさすがに猫の体術である。
 
 見ればお父さんはまだ寝ている。寝ながら反撃したのだ。全く以てあきれた寝ぼすけだ。
 
 本来であればお父さんを叩き起こし、主人である吾輩に手を挙げたその非道の振る舞いを問いつめ、こんこんと説教を垂れねばならぬところだが、先を急ぐのでそれはやめておこう。決して、お父さんにびびったわけではない。
 
 続いて吾輩は次男の「まーくん」に向かった。まーくんは小学校の上級生だった。そのとき、まーくんがむくっと立ち上がった。
 
 おお、吾輩の気配を察して、いち早く自ら起床を決意したか、と思ったら違った。
 
「おにいちゃーん。おにいちゃーん。あのねえ、もにゃもにゃのゲームは、保存しといたよ~」

 大きな声で隣室の兄の「けいくん」に向かってしゃべると、一拍置き、真下に崩れ落ちた。同時にあきれるくらいに安らかな寝息が響いた。寝ぼけたのだ。実にダイナミックな寝ぼけ方だった。

 あきれた吾輩はお父さんの伴侶である「お母さん」に向かった。お母さんは吾輩同様、無類の寒がりであり、蓑虫さながらに堅く堅く布団を巻き付けて寝ていた。
 
 吾輩はお母さんには比較的質の高い奉仕を受けているので、舌でなめるのはやめておいた。かわりに、右手の肉球をもってとんとんと顔を叩く。するとお母さんの布団が魔法のようにするすると動き、吾輩を迎え入れた。あれ、と思ったら、吾輩は布団の中に巻き込まれていた。
 
 これ、何をする。吾輩はそのほうらを起こしに来てやったのだぞ。
 
 そう叱咤したが、布団の中はあまりに暖かかった。吾輩は……
 
 ……おっといかん。寝てしまっていた。

 時計を見るともう1時間も過ぎていた。午前6時だ。
 
 こうなったら別室で寝ているお兄ちゃんを起こそう。
 
 そう決意して部屋を出たとき、がつん、と衝撃がきた。誰かが吾輩を蹴飛ばしたのだ。

「あ、悪い、なる 」

 言い捨てて駆けていくのは中学生のお兄ちゃんだった。家から遠いところにある中学校に通っているので、早めにバスに乗らねばならないのだ。
 
 やれやれ、酷い目にあった。


 吾輩は家人を起こすのを諦め、居間に向かった、ゴロンと横になる。仕方ない、もう一眠りするか。そう思ったときには再びすとんと夢の世界に落ちた。
 
 そのうち、声がどこからか降ってきた。
 
「朝早くから、何を見ているの?」
 
 お母さんの声だ。
 
「インターネットでおもしろいページを見つけたんだよ。ペットの写真をアップしておけるんだ」
 
 お父さんが答える。
 
「なんていうページ?」
 
「ちょっとまてよ、パソコンを見てみるから……ええとね、ペットレートというページだ。 ナショナルペットレートギャラリーというのが正式の名前かな」
 
「何屋さんがやっているページなの?」
 
「保険会社だな。人間のじゃなくてペットのね。アリアンツ火災海上保険とかいうイギリスの会社だ」
 
「イギリス、ああ、それでペットの写真なのね」
 
「動物愛護の国だけあるなあ。これ見てごらん。すごいよ2万7千枚以上もペットの写真が登録されているし、ペットの種類も犬や猫だけじゃないんだ。昆虫とか牛とか」
 
「牛がペットというご家庭もあるのね」
 
「さすがに鯨、というのはないが」

「さっそく、なる の写真も登録しましょ」
 
「そうだね、おっと、『アリアンツペット保険 にゃんにゃんキャンペーン』なんてのもあるぞ。クリックしてみると、おっと」
 
「かわいい! ねこベッドだって」
 
「楽しいなあ。これほしいね」
 
「どうすればもらえるの?」
 
「ええと、応募資格だな。ペットレートにご参加いただきギネスIDを取得された方」
 
「なに、そのギネスIDって」
 
「ペットの写真を登録するともらえるらしい」
 
「じゃあ、写真撮って、登録して、応募しましょうよ」
 
「そうだね。おや、これはなんだろう。『新聞の上からねこをどかすゲーム』だって。ちょっとやってみようか」
 
「会社に遅れないようにね」
 
「うん。あ、これ、はまりそうだ」
 
「かわいい。なでなでする、と、いいこいいこすると、猫が動くのね」
 
「あー、なかなか猫の下の文字が読めない!」
 
 騒がしい。
 
 なにゆえに人間というものは、こうも遊び事に熱中するのだろう。猫族を見習って、もそっとでんと構えてはどうか。
 
 顔を上げると、すっかり仕事に向かうサラリーマンの姿になったお父さんが必死になってパソコンに向かっているのが見えた。
 
 吾輩は身を起こすや、パソコンの方へ歩いた。
 
 お母さんがモニターの前ではしゃぎはじめた。どうやら、ペットレートとやらに登録する写真を選んでいるらしい。
 
 
 わっ、なにを送るつもりだ。そんな酔狂な姿を衆人に晒すのはいかんぞ。
 
 
「どうしてなるはいつもプリンターの上で寝るんだろうね」
 
 床で寝ていたら、踏み潰されるからに決まっておろうが!
 
「わははは、これ見てご覧。プリンターの上で長くなっているぞ」
 
 どこでどう寝ようが、おぬしらの指図は受けん。
 
「じゃあ、これを登録しよう」
 
 待て!
 
 吾輩はジャンプした。机の上に着地しざま、いままさに画像を送信しようとするお父さんの指を止めに入った。
 
 かしゃ。
 
 あれ?
 
「あら、なるがエンターを押してくれたわ」
 しまった。お父さんの指があまりに太いので、キーボードのエンターキーと間違えたのだ。
 
「やっぱり、なるも自分の写真がインターネットに公開されるのを喜んでいるのね」
 
 いや、そうなんでもかんでも自分の都合のよいように考えるのは人間の悪い癖だぞ。
 
 しかし、公開された吾輩の写真は、それなりに見栄えがした。やはり、こう、できる猫というのはどの角度から撮られても、オーラを発するものだ。

 自分の都合のよいように考えるのは、猫族の良い癖である。




ペットの写真を投稿しよう!ナショナルペットレートギャラリー
  外国為替保証金取引 FX は会社によってトレードシステムの使い勝手がかなり違う。チャートを見ながら売り・買いの発注が瞬間的にできるようなシステムをもっている会社もあれば、なかなか発注にたどりつかない会社もある。

 中長期の売買を行のならば、システムの操作性はさほど気にする必要はないが、短期になればなるほどトレードツールの機能は重大な影響を与える。

 AFT-FXダイレクトトレードのシステムはこの点汎用性がかなり高い。ワンクリック注文の機能をもち、タイミングを逃さない。リクオート注文はディーラーとの相対での取引ができるということでは画期的な機能であり、さらに、上級者にはうれしいチャートの動きに反応する自動売買の仕組みまである。

 アメリカのGlobal Forex Trading(GFT:ミシガン州)の日本正規代理店であるということから、既存の日本のFX会社にはない個性が光っている。システム以外では、たとえば取引通貨の種類の豊富さと、それゆえにスワップ金利が高い銘柄で勝負できるのには感心した。低金利時代になって表舞台から姿を消したスワップ狙いのトレード手法も可能だろう。

 ちなみに私のFXの腕は、かろうじて破産は避けているというレベル。決してうまくはない。昨日はレバレッジを最大にきかせ、スキャルピングの教科書どおりに仕掛けたら数分で9万円とられた。このままではまずいと思い、教科書を捨て、チャートを見て「この後下がる」と確信したときに投入、なんとか「売り」から入って9万と6千円をとり返した。やれやれ、酔っぱらってFXをするととんでもない目にあう。

外国為替保証金取引サービス AFT-FXダイレクトトレード



 http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/54a91d487523a5201cde9c3853111e81/1253096526
 最近幽霊を見るようになってきた。

 幽霊というのは、見間違えによる虚像のことだ。誰もいないところに人影を見るなどは日常茶飯事。この間は寝ている長男の顔の上に同じ顔が浮いているのが見えてしまった。

 若い頃は自分も歳を取るということは意識できない。私もいい加減に齢を重ねているがまだ、自分が老人になるとは思っていない。たとえ戸籍上の年齢がそれなりになったとしても、20代と同等の体力を維持していれば、それは年寄りではない、と確信していたからだ。ところが 筋肉と骨格は大丈夫でも、歳を取ると目が衰える。おそらく脳の中での信号の解釈が怪しくなってきて、それで幽霊が見えるようになったのだろう。

 平安朝の貴族達はしょっちゅう幽霊を見ていたそうだが、部屋が暗かったことと、ビタミン類の欠乏による錯覚だったという説を聞いた事がある。こと見間違いについてだけ言えば私も平安貴族並になったということか。あまりうれしくない。

 このような状況なので、自動車の運転には気を遣う。反射能力はそんなに落ちてはいないが、なにせ見間違いによる事故があってはならない。いもしない幽霊を見られるうちはいいが、現実に存在している人の姿が見えなくなったら危ない事この上ない。

 こういう視力の中年男に一番やっかいなドライブ環境が、夕暮れ時である。まだ目が暗さに慣れていない。太陽と月のふたつの灯り(トワイライト)が天にともる、魔の時である。自動車のライトをつけていても前が見えにくい。

 この状況を打開するためには、自分の視力を向上させるか、夕暮れ時でもはっきりと前方が見えるように自動車にちゃんと前を照らして貰うか、である。人間の体は鍛えれば強くなるが、しかし機械の場合は無理だ。自動車にウサギ跳びをさせて強くした、という話は聞いた事もない。従って自動車の性能を上げるには、何らかの改造をするしかない。

 調べると、自動車のライトはまだまだ明るくできるらしい。普通の自動車のライトは、ハロゲンランプだ。しかし特殊なガスに高電圧をかけることにより、より強い光量が得られるという。さらには、電球自体の形を工夫し、消費電力が従来のハロゲンランプの半分なのに、約3倍の明るさを保ち、さらに約5倍の長寿命を与えつつも、値段をどんと下げることに成功した。こういうライトがあれば、幽霊を見ているうちに幽霊になりかねない私も、安心して自動車を運転できるだろう。このランプを開発したのは、Monobeeという会社である。

 自動車の技術は日進月歩しているのは知っていたが、ライトまでもここまで研究されていたとは思わなかった。日本人ならではの工夫の才能だろう。

 昨年来の世界同時経済危機にあって、その原因を作ったのはもちろん金融機関だが、とどめをさした(?)のはアメリカの自動車産業だった。特に環境技術では日本に大きく水を空けられた格好のアメリカ自動車産業。それに対して日本は環境性能を武器として、混迷する世界経済にリターンマッチを挑もうとしている。それを支えているのが、小さな技術革新の蓄積であり、このMonobeeのこの製品、「Monobee HID」もまさにそのような技術力のひとつなのだ。



(了)



 大学に進み初めて親元を離れた。違うまちで暮らし始めてすぐに手紙が届いた。生まれて初めてもらう父親からの手紙だった。

「ひとつ、健康に気をつけること。ひとつ、学校でちゃんと勉強すること。ひとつ、金がなくなる前に連絡すること……」

 さながら道場訓のような、あるいはお買い物メモのような、飾り気のない単文が次々と並んでいた。

「……洗濯は、風呂屋ですること」

 若干の説明を要する。風呂屋にコインランドリーがついているはずだと、親戚から聞いた父親が、そういう背景説明を一切省いて、要点だけを述べたのだ。だがこれでは、風呂場でパンツを洗えと言っているようだ。

 父親の最終学歴は小学校だった。頭はしかし悪くない。むしろ切れるほうだ。なのに届いた私信はからっきし下手くそだ。意外だなと驚いた。

 形式張る必要はないとは思うものの、手紙の書き方には最低限の共通様式があり、それはたとえ中身が絶縁状であろうとも守るべきものだと思う。文章力に多少の難があっても、形式を守っている手紙には教養を感じるものだ。 逆に手紙マナーが崩れていると、どんなに差出人がすばらしい人格の持ち主であっても、知恵が回る才人であっても、浅学な野人と見られてしまう危険性がある。

 我が父親ながら文章がこれでは困るなと思っていた。それから30年ほど経ったある年、齢70を超え永らく勤めた会社の会長に就任してから、急に父親はパソコンを独習し始めた。いまだにパソコンを導入していない会社のためを思い、様々な帳票を作るのが目的だったのだ。

 それから数年後、父親は癌で他界した。家族と仕事のために尽くし抜いた一生だった。 葬式の準備をするため父親の身の回りを整理して驚いた。ノートパソコンには自分の生い立ちからの記録をぎっしりと入力し、入院していたときに使っていたノートには、日々の病状とそれに伴って変化する自分の気持ちを記していたのだ。 たぶん、古希過ぎてパソコンを始めたことがきっかけとなり、「道場訓」や「お買い物メモ」のレベルではない、まとまった文章を書くようになったのだろう、と私はそのとき思った。

 闘病中のノートには、家族へのメッセージも書かれていた。母や妹、孫達へ。何ページにも渡って、父親の人格がノートの中に一種の手紙として結実されていた。 長男である私に対しての言葉が、しかしなかなか出てこない。書く時間が残されていなかったのかと思いながらノートをめくった。家族への文はノートの中央あたりのページまで続いた。

 その最後の一行に、あった。私宛の言葉が、こう記されていたのである。

「母さんを頼んだぞ」

 父親が私に宛てた手紙は、いつも「道場訓」になる。その本当の理由を、そのとき悟った。

 父が単文でしか私にメッセージを伝えないのは、手紙の書き方を知らないからではなかった。語りたい思いがありすぎて多すぎて、その結果短い文章しか書けなかったのだ。不器用な、昭和ひとけたの男。

 私はその「道場訓」をいつまでも見つめ続けた。

(了)



 


 文章力を高めるには「読む」「考える」「書く」ことが不可欠である。この三つを根気よく繰り返していれば、筆力は上がる。名文家にはなれなくても「良文家」くらいにはなるだろう。

 まず、何をどのように読むべきか。優れたプロの書き手の作品をむさぼり読むことである。

 例を一つ挙げれば、司馬遼太郎の歴史エッセイ。これは格好の参考書になる。全編これ説明文なのだが、飽きさせず話題の核にぐいぐいと引っ張ってくれる。深い内容を平易な日本語で表現し、漢字の使用率も非常に低い。これを二度以上読む。

 参考にしてはいけないのがインターネットのプライベートページの文章である。アマチュア(プロであっても)が仕事でなく書いた文章は、自然に脇が甘くなる。推敲回数が少ないからである。そういう文章をお手本にしてはならない。ちなみに私の文章も例外ではない。私は新聞社などから依頼を受けて原稿を送るときは最低十回以上見直し推敲しているが、金にならないときには推敲回数は二、三回に激減する。従って本稿も脇の甘い文章になっているはずだ。

 続いて、何をどのように考えるのか。「考える」とは、テーマに対して自分の意見を整理することである。論理的、感情的に評価し、前提から結論までの道筋を段差なく仕上げていく。一番効率の良い考える方法は「歩きながら考える」ことである。

 この手法には先達がいる。古代ギリシャの逍遙学派だ。彼らはアリストテレスが創設した歩きながら考える哲学者集団だった。なぜか歩くと思考の筋道が通りやすくなるのだ。食事の後に散歩しながらものごとを考えると、健康管理にもつながり一石二鳥である。ちなみにメモと筆記用具は当然持参。

 テーマが見つからないときには、誰かからお題を頂戴してもいい。逆説的だが自分にとって関心のないテーマだとなおいい。調べ、知り、その上で新鮮な視点からそのテーマについて考えることができるからである。

 最後の鍛錬は書くことである。とにかく徹底的に書く。最初にキーワードを並べておいて後で整理する書き方もあるが、それができるのはかなり文章力がある人だ。それ以前の段階にいるときは支離滅裂でも論理破綻していても構わないからまずは通しで書く。毎日毎日、書いて書いて書き続ける。四百字詰原稿用紙換算で百枚以上も書けば、意味の通った文章を書く力が身につくはずである。
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