日記です。文章をテーマとすることが多いですが、その他もろもろ。
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書くという行為は素晴らしい脳の運動である。思考を抽象化し文という一定の型に結晶化させ、その配置を工夫しより効果的に文意が立つように構成する。この過程では大脳新皮質がフルに活躍する。しかも旧皮質に宿る様々な欲が昇華され、これが新皮質の背中を押すことにより読後感のある文章を産み落とすのである。渾身の力をもって満足の一文を成したときには、スポーツ後のごとき清涼感を味わえる。
しかし必要もないのに文章を書くということは、なかなかできない。文章は必ず読者を想定する。誰に見せるわけでもない日記であったとしても、その読者は自分自身である。だが、自分はすでにその出来事を経験しているので、いまひとつ読者としては物足りない。日記が続かない理由のひとつはここにある。
だが、誰かが読んでくれる日記ならどうだろう。自分の生活をさらけ出したいという欲求などではなく、自分の文章を読んでもらえるという喜びで、書き続けられるであろう。ブログがこれほどまでにインターネット上で隆盛を極めているのもそのためだと思える。
文章を書くのは楽しい脳の運動である。しかし、なんらかの動機付けがないと楽しさは半減する。この動機付けが効果的になされると、ひとはますます楽しく言葉をつむぎだし、文章を生み落とすだろう。もしも 適度な動機付けとそれによる執筆という生産行動をうまく結びつける場があれば、誰もがもっともっと文章づくりを楽しめるだろう。そういう場があるだろうか。実は、ある。
しかし実は報酬だけがブログライティングの魅力ではない。たとえば、ブログ広告.comでは、もちろん採用になったブログに対しての報酬も用意しているが、さらなる動機づけの方法として、書き手のランクづけをしている。星がゼロから3つまで。当然文章の書き手としては、三つ星を目指していいものを創ろうと思う。
しかもブログ広告.comではブログに口コミ記事を掲載する「ブロガー案件」と、専用の投稿フォームから口コミ記事を投稿するだけの「ライター案件」の2通りのランクを用意している。
文章を書き慣れてくれば、自分の文章力がどこまで評価されるかが重大な関心事になる。ブロガーとライターでは仮に同じテーマであっても書き方は違ってくる。主観性と客観性の配合比が異なる、と言うべきであろうか。
この主客の配合比率を自在に変えることができるようになれば、おそらく書くことが楽しくて仕方ない、という境地に至るだろう。文章を書く事の真の報酬は、この喜びである。
この主客の配合比率を自在に変えることができるようになれば、おそらく書くことが楽しくて仕方ない、という境地に至るだろう。文章を書く事の真の報酬は、この喜びである。
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大学に進み初めて親元を離れた。違うまちで暮らし始めてすぐに手紙が届いた。生まれて初めてもらう父親からの手紙だった。
「ひとつ、健康に気をつけること。ひとつ、学校でちゃんと勉強すること。ひとつ、金がなくなる前に連絡すること……」
さながら道場訓のような、あるいはお買い物メモのような、飾り気のない単文が次々と並んでいた。
「……洗濯は、風呂屋ですること」
若干の説明を要する。風呂屋にコインランドリーがついているはずだと、親戚から聞いた父親が、そういう背景説明を一切省いて、要点だけを述べたのだ。だがこれでは、風呂場でパンツを洗えと言っているようだ。
父親の最終学歴は小学校だった。頭はしかし悪くない。むしろ切れるほうだ。なのに届いた私信はからっきし下手くそだ。意外だなと驚いた。
形式張る必要はないとは思うものの、手紙の書き方には最低限の共通様式があり、それはたとえ中身が絶縁状であろうとも守るべきものだと思う。文章力に多少の難があっても、形式を守っている手紙には教養を感じるものだ。 逆に手紙マナーが崩れていると、どんなに差出人がすばらしい人格の持ち主であっても、知恵が回る才人であっても、浅学な野人と見られてしまう危険性がある。
我が父親ながら文章がこれでは困るなと思っていた。それから30年ほど経ったある年、齢70を超え永らく勤めた会社の会長に就任してから、急に父親はパソコンを独習し始めた。いまだにパソコンを導入していない会社のためを思い、様々な帳票を作るのが目的だったのだ。
それから数年後、父親は癌で他界した。家族と仕事のために尽くし抜いた一生だった。 葬式の準備をするため父親の身の回りを整理して驚いた。ノートパソコンには自分の生い立ちからの記録をぎっしりと入力し、入院していたときに使っていたノートには、日々の病状とそれに伴って変化する自分の気持ちを記していたのだ。 たぶん、古希過ぎてパソコンを始めたことがきっかけとなり、「道場訓」や「お買い物メモ」のレベルではない、まとまった文章を書くようになったのだろう、と私はそのとき思った。
闘病中のノートには、家族へのメッセージも書かれていた。母や妹、孫達へ。何ページにも渡って、父親の人格がノートの中に一種の手紙として結実されていた。 長男である私に対しての言葉が、しかしなかなか出てこない。書く時間が残されていなかったのかと思いながらノートをめくった。家族への文はノートの中央あたりのページまで続いた。
その最後の一行に、あった。私宛の言葉が、こう記されていたのである。
「母さんを頼んだぞ」
父親が私に宛てた手紙は、いつも「道場訓」になる。その本当の理由を、そのとき悟った。
父が単文でしか私にメッセージを伝えないのは、手紙の書き方を知らないからではなかった。語りたい思いがありすぎて多すぎて、その結果短い文章しか書けなかったのだ。不器用な、昭和ひとけたの男。
私はその「道場訓」をいつまでも見つめ続けた。
(了)
文章力を高めるには「読む」「考える」「書く」ことが不可欠である。この三つを根気よく繰り返していれば、筆力は上がる。名文家にはなれなくても「良文家」くらいにはなるだろう。
まず、何をどのように読むべきか。優れたプロの書き手の作品をむさぼり読むことである。
例を一つ挙げれば、司馬遼太郎の歴史エッセイ。これは格好の参考書になる。全編これ説明文なのだが、飽きさせず話題の核にぐいぐいと引っ張ってくれる。深い内容を平易な日本語で表現し、漢字の使用率も非常に低い。これを二度以上読む。
参考にしてはいけないのがインターネットのプライベートページの文章である。アマチュア(プロであっても)が仕事でなく書いた文章は、自然に脇が甘くなる。推敲回数が少ないからである。そういう文章をお手本にしてはならない。ちなみに私の文章も例外ではない。私は新聞社などから依頼を受けて原稿を送るときは最低十回以上見直し推敲しているが、金にならないときには推敲回数は二、三回に激減する。従って本稿も脇の甘い文章になっているはずだ。
続いて、何をどのように考えるのか。「考える」とは、テーマに対して自分の意見を整理することである。論理的、感情的に評価し、前提から結論までの道筋を段差なく仕上げていく。一番効率の良い考える方法は「歩きながら考える」ことである。
この手法には先達がいる。古代ギリシャの逍遙学派だ。彼らはアリストテレスが創設した歩きながら考える哲学者集団だった。なぜか歩くと思考の筋道が通りやすくなるのだ。食事の後に散歩しながらものごとを考えると、健康管理にもつながり一石二鳥である。ちなみにメモと筆記用具は当然持参。
テーマが見つからないときには、誰かからお題を頂戴してもいい。逆説的だが自分にとって関心のないテーマだとなおいい。調べ、知り、その上で新鮮な視点からそのテーマについて考えることができるからである。
最後の鍛錬は書くことである。とにかく徹底的に書く。最初にキーワードを並べておいて後で整理する書き方もあるが、それができるのはかなり文章力がある人だ。それ以前の段階にいるときは支離滅裂でも論理破綻していても構わないからまずは通しで書く。毎日毎日、書いて書いて書き続ける。四百字詰原稿用紙換算で百枚以上も書けば、意味の通った文章を書く力が身につくはずである。
文章を書くことはたき火に似ている。言の葉を集め、集め、かき集め、火を付けて炎という形に昇華させるのだ。そのためにはまず、言の葉という葉っぱを集めなければならない。
人によっては自分の机に向かい、原稿用紙、或いはパソコンに向かわねば一行も書けないという場合もあろう。だが、限られた時間内に多くのコンテンツを生み出さねばならない人。たとえば流行作家やブロガー、或いは企業の企画マンはわずかの時間も有効に使わねばならない。
このような忙しい生活環境に置かれた人が文章を書く場合、思いついた短い文、イメージ、メッセージを書きためるという作業が不可欠である。思いつくのはたとえばトイレの中であったり、通勤途中であったり、寝床の中であったりする。その時にメモをとるのがベテランと初心者の違いになる。
中には「重要な事なら覚えられるはずだからメモはとらない」とうそぶく人がいるが、大間違いである。書き留めないアイデアはたちまち虚空に散って二度と戻らない。
私は大抵の環境でもすぐメモを取れるようにしている。トイレにも寝床にもメモ帳とペンを置いている。外出時には手帳は必携品だ。だが、これらの手書きメモは転記するのが面倒でもある。だから使える時には携帯電話やらミニノートパソコンやら、データ化できるツールをメモよりも優先させる。まとまったフレーズ、文章が浮かんだときはなおさらだ。
こうして転記した、或いは入力機械で溜めた言葉をパソコン上に集合させ、使えるフレーズ、アイデアをある種の法則性に沿って並べると文章ができる。はじめから机に向かってうんうんうなりながら文章を紡ぎ出すよりもはるかに短時間ですむ。もっと重要な事は、生み出す作業と構成する作業との間に時間的な間隔が空くので、客観的に自分が述べようとしているメッセージを評価できることだ。
昇華して天に昇る文章は、主観的でないと天まで届かないが、客観的でないとそもそも方向性が狂ってしまい、地にのたうつ。立派なたき火を集めるためには、様々な方法で言葉という葉を集めるのだ。
人によっては自分の机に向かい、原稿用紙、或いはパソコンに向かわねば一行も書けないという場合もあろう。だが、限られた時間内に多くのコンテンツを生み出さねばならない人。たとえば流行作家やブロガー、或いは企業の企画マンはわずかの時間も有効に使わねばならない。
このような忙しい生活環境に置かれた人が文章を書く場合、思いついた短い文、イメージ、メッセージを書きためるという作業が不可欠である。思いつくのはたとえばトイレの中であったり、通勤途中であったり、寝床の中であったりする。その時にメモをとるのがベテランと初心者の違いになる。
中には「重要な事なら覚えられるはずだからメモはとらない」とうそぶく人がいるが、大間違いである。書き留めないアイデアはたちまち虚空に散って二度と戻らない。
私は大抵の環境でもすぐメモを取れるようにしている。トイレにも寝床にもメモ帳とペンを置いている。外出時には手帳は必携品だ。だが、これらの手書きメモは転記するのが面倒でもある。だから使える時には携帯電話やらミニノートパソコンやら、データ化できるツールをメモよりも優先させる。まとまったフレーズ、文章が浮かんだときはなおさらだ。
こうして転記した、或いは入力機械で溜めた言葉をパソコン上に集合させ、使えるフレーズ、アイデアをある種の法則性に沿って並べると文章ができる。はじめから机に向かってうんうんうなりながら文章を紡ぎ出すよりもはるかに短時間ですむ。もっと重要な事は、生み出す作業と構成する作業との間に時間的な間隔が空くので、客観的に自分が述べようとしているメッセージを評価できることだ。
昇華して天に昇る文章は、主観的でないと天まで届かないが、客観的でないとそもそも方向性が狂ってしまい、地にのたうつ。立派なたき火を集めるためには、様々な方法で言葉という葉を集めるのだ。
文章は読者に読まれて初めて文章となる。最後まで読まれない文章は記号にしか過ぎない。最後まで読ませるには最初に徹底的にこだわるのが秘訣である。
書き手は自分が一所懸命に書いているのだから、必ず読み手は最後まで読んでくれるものだと無意識に思いこむ。文章の初心者であればあるほどその傾向が強い。その結果、文に甘えが生まれる。
相手は必ず読むはずだ、という前提だと、読ませるためにどういう構成が必要なのか、つまりぐいぐいと読み手を自分の文章が描き出そうとしている世界に引っ張り込むためには、どのような手順が必要なのかを考えなくなる。サービス精神のない商売と同じことだ。あっという間に客、この場合読者は離れる。
ではどうすれば最後まで相手を引っぱっていく文章を構成できるか。逆説的だが、冒頭に述べたように、出だしにこだわるのである。特に、最初の3つの文(これを出だし3行と言うが)には最大限の注意を払い、愛情を注ぐのである。理由は三つある。
漫画だと読者は途中からでも読むが、文章はどんな読者でもまず冒頭を探し、そこから読み始めるものだ。つまり、必ず読者が最初に行う行動に、最高の技を仕掛けられるチャンスであるということ。これが第一の理由。
もうひとつの理由は、出だし3行に、その稿のメッセージを象徴する情報を載せておくことで、文章の完成度を高く見せる、という効果が期待できるということ。
最後の理由は、二つ目の理由と背中合わせだが、その稿のメッセージを象徴する文章が書けるということは、その稿のメッセージが、少なくとも書き手の頭の中では簡素に、平明にできあがっているということだからだ。
実は、三番目の理由が最も重要である。とかく初心者ほど、稿の完成形をイメージしないまますぐ書き出したがる。書いているうちに目的がはっきりして、結論にたどりつくような文だと、それに付き合わされている読み手がたまったものではない。読者は、シノプシスの推敲を共有したいのではなく、その推敲によって生み出された作品の姿を見たいのだ。
したがって、出だし3行はその稿全体を、つまり文章としての死活を左右する最重要箇所であり、短い時間の中に勝負の結果を内包しているのである。剣術の世界での居合い術がこれに近い。瞬息の間に、もてる技術の全てが交錯し、生きるか死ぬかがはっきりするのだ。
書き手は自分が一所懸命に書いているのだから、必ず読み手は最後まで読んでくれるものだと無意識に思いこむ。文章の初心者であればあるほどその傾向が強い。その結果、文に甘えが生まれる。
相手は必ず読むはずだ、という前提だと、読ませるためにどういう構成が必要なのか、つまりぐいぐいと読み手を自分の文章が描き出そうとしている世界に引っ張り込むためには、どのような手順が必要なのかを考えなくなる。サービス精神のない商売と同じことだ。あっという間に客、この場合読者は離れる。
ではどうすれば最後まで相手を引っぱっていく文章を構成できるか。逆説的だが、冒頭に述べたように、出だしにこだわるのである。特に、最初の3つの文(これを出だし3行と言うが)には最大限の注意を払い、愛情を注ぐのである。理由は三つある。
漫画だと読者は途中からでも読むが、文章はどんな読者でもまず冒頭を探し、そこから読み始めるものだ。つまり、必ず読者が最初に行う行動に、最高の技を仕掛けられるチャンスであるということ。これが第一の理由。
もうひとつの理由は、出だし3行に、その稿のメッセージを象徴する情報を載せておくことで、文章の完成度を高く見せる、という効果が期待できるということ。
最後の理由は、二つ目の理由と背中合わせだが、その稿のメッセージを象徴する文章が書けるということは、その稿のメッセージが、少なくとも書き手の頭の中では簡素に、平明にできあがっているということだからだ。
実は、三番目の理由が最も重要である。とかく初心者ほど、稿の完成形をイメージしないまますぐ書き出したがる。書いているうちに目的がはっきりして、結論にたどりつくような文だと、それに付き合わされている読み手がたまったものではない。読者は、シノプシスの推敲を共有したいのではなく、その推敲によって生み出された作品の姿を見たいのだ。
したがって、出だし3行はその稿全体を、つまり文章としての死活を左右する最重要箇所であり、短い時間の中に勝負の結果を内包しているのである。剣術の世界での居合い術がこれに近い。瞬息の間に、もてる技術の全てが交錯し、生きるか死ぬかがはっきりするのだ。
説明文にも匂いがあり、味覚がある。構成を考えない事実の羅列は金属製スプーンをなめたような無機的な味がする。
よくできた説明文は懐石料理である。謎の提供があり、山場があり、伏線とその回収があり、カタストロフィーがある。そこからただよう匂いは複雑でいてある種の精神の浄化(カタストロフィー)をもたらす。
文章力とは構成力のことだ。いや、文章だけではなく、舞台芸術、映画、音楽……いずれも構成力がその魅力の柱となっている。コンテンツ、と呼ばれるものすべて、基本にして極意となるのは、構成力である。それが備われば、説明文にもドラマが生まれるのである。
よくできた説明文は懐石料理である。謎の提供があり、山場があり、伏線とその回収があり、カタストロフィーがある。そこからただよう匂いは複雑でいてある種の精神の浄化(カタストロフィー)をもたらす。
文章力とは構成力のことだ。いや、文章だけではなく、舞台芸術、映画、音楽……いずれも構成力がその魅力の柱となっている。コンテンツ、と呼ばれるものすべて、基本にして極意となるのは、構成力である。それが備われば、説明文にもドラマが生まれるのである。
「雨が降ったのなら、『雨が降った』と書け」
ロシアの文豪ゴーリキの言葉である。
華美な修飾語は白々しい。それ以前に肝腎の文意を伝え損なう危険性もある。短く簡潔に書くことが読まれる文を書くコツである。
ロシアの文豪ゴーリキの言葉である。
華美な修飾語は白々しい。それ以前に肝腎の文意を伝え損なう危険性もある。短く簡潔に書くことが読まれる文を書くコツである。
ここまではたいていの文章技術の解説本に書いてある。だが、簡明平易は基本だが、それだけでは読まれない。書き手の個性に触れられないからである。
文章は一方的ではあるけれども会話である。独自の視点と人間性がにじみでると味わいが深まる。
インターネットと携帯電話の普及で、人々が文章を書く機会が昔に比べて各段に増えた。昔は手紙と日記、どちらも書かない人は、構成力をもった文章を書けなかったものだった。書いたとして、まるでTODOリストのような箇条書きに近いものにしかならなかった。
ところが、電子メールがインターネットでまず普及し始めると、変換ミスによる誤字脱字は盛大に盛り込まれながらも、人々は自らの意思を文字の形で構成し始めた。それがベースとなったのか、携帯電話にメール機能がつくや、老若男女問わず、日常的に文字に親しみ始めた。
ブログの発達はこれにさらなる拍車をかけ、今や、さらさらと日本語を紡ぎ出すことは、漢字を手で書けないとしても、日本人としては当たり前の技術になっている。
日本開闢以来初めて、大部分の日本人が文章に親しみ、日常的に文章をやりとりするようになった、と言える。平安時代の貴族達が文(ふみ)をやりとりするのが当然だったように、現代人はメールをやりとりする。こと文章の世界で言えば、今や日本人総平安貴族化、と言ってもいいような時代になっているのである。
それだけに、箇条書きに近い文章しか書けないと、人格や能力を疑われかねない。筆慣れしていないと、肩身が狭くなるのである。生活が便利になると、思わぬところでスキルアップが必須の常識となる。
ところが、電子メールがインターネットでまず普及し始めると、変換ミスによる誤字脱字は盛大に盛り込まれながらも、人々は自らの意思を文字の形で構成し始めた。それがベースとなったのか、携帯電話にメール機能がつくや、老若男女問わず、日常的に文字に親しみ始めた。
ブログの発達はこれにさらなる拍車をかけ、今や、さらさらと日本語を紡ぎ出すことは、漢字を手で書けないとしても、日本人としては当たり前の技術になっている。
日本開闢以来初めて、大部分の日本人が文章に親しみ、日常的に文章をやりとりするようになった、と言える。平安時代の貴族達が文(ふみ)をやりとりするのが当然だったように、現代人はメールをやりとりする。こと文章の世界で言えば、今や日本人総平安貴族化、と言ってもいいような時代になっているのである。
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