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日記です。文章をテーマとすることが多いですが、その他もろもろ。

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 文章を書くことはたき火に似ている。言の葉を集め、集め、かき集め、火を付けて炎という形に昇華させるのだ。そのためにはまず、言の葉という葉っぱを集めなければならない。

 人によっては自分の机に向かい、原稿用紙、或いはパソコンに向かわねば一行も書けないという場合もあろう。だが、限られた時間内に多くのコンテンツを生み出さねばならない人。たとえば流行作家やブロガー、或いは企業の企画マンはわずかの時間も有効に使わねばならない。

 このような忙しい生活環境に置かれた人が文章を書く場合、思いついた短い文、イメージ、メッセージを書きためるという作業が不可欠である。思いつくのはたとえばトイレの中であったり、通勤途中であったり、寝床の中であったりする。その時にメモをとるのがベテランと初心者の違いになる。

 中には「重要な事なら覚えられるはずだからメモはとらない」とうそぶく人がいるが、大間違いである。書き留めないアイデアはたちまち虚空に散って二度と戻らない。

 私は大抵の環境でもすぐメモを取れるようにしている。トイレにも寝床にもメモ帳とペンを置いている。外出時には手帳は必携品だ。だが、これらの手書きメモは転記するのが面倒でもある。だから使える時には携帯電話やらミニノートパソコンやら、データ化できるツールをメモよりも優先させる。まとまったフレーズ、文章が浮かんだときはなおさらだ。

 こうして転記した、或いは入力機械で溜めた言葉をパソコン上に集合させ、使えるフレーズ、アイデアをある種の法則性に沿って並べると文章ができる。はじめから机に向かってうんうんうなりながら文章を紡ぎ出すよりもはるかに短時間ですむ。もっと重要な事は、生み出す作業と構成する作業との間に時間的な間隔が空くので、客観的に自分が述べようとしているメッセージを評価できることだ。

 昇華して天に昇る文章は、主観的でないと天まで届かないが、客観的でないとそもそも方向性が狂ってしまい、地にのたうつ。立派なたき火を集めるためには、様々な方法で言葉という葉を集めるのだ。

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 笑いは毒である。しかし健康にはいい。どういう毒だろう?

 笑う事そのものは確かに健康にいい。ナチュラルキラー細胞という、免疫力を高める細胞が活性化するという研究もあるらしい。しかし、笑いそのものの本質は、毒である。

 たとえば落語。日本人の笑いのエッセンスを凝縮した話芸だが、この中に盛り込まれた笑いにはある共通項が存在する。「だれかを馬鹿にすること」である。

 馬鹿の三太郎の上をいく与太郎。馬鹿殿様。学のない八っつあん。こうしたキャラクターが馬鹿ゆえに馬鹿なことをするのを馬鹿だと言って笑うのである。落ちついて考えれば、とんでもないことである。

 しかしこのとんでもないことの中にこそ、笑いの本質がある。笑いとは悲しみの裏地なのだ。馬鹿にされたほうには悲劇だが、馬鹿にするほうにとっては喜劇である。

 古代ギリシャには悲劇と喜劇しかなかった。これらの共通項は精神の浄化作用である。観客は馬鹿にされたほうの立場に立って泣き、馬鹿にしたほうの立場に立って笑うのである。それにより精神のバランスと身体の健康を維持していた。

 現代でも政治家がいっときの笑いをとるために発した言葉が、不適切発言として政治家そのものの立場を左右しかねない失言に変身することが多い。だがしかし、その場限りの話題である限り、もともと笑いに理性はない。理性をなくすのが笑いの目的なのだから当たり前の事だ。それを理性が優勢になっている時間帯と場所に引きずり出してけしからん、というのは、野暮というものだ。

笑いは本来毒であり、だからこそ使い方によっては薬にもなる。服用方法、服用の時間帯を間違えなければ、だが。


 





 文章は読者に読まれて初めて文章となる。最後まで読まれない文章は記号にしか過ぎない。最後まで読ませるには最初に徹底的にこだわるのが秘訣である。

 書き手は自分が一所懸命に書いているのだから、必ず読み手は最後まで読んでくれるものだと無意識に思いこむ。文章の初心者であればあるほどその傾向が強い。その結果、文に甘えが生まれる。

 相手は必ず読むはずだ、という前提だと、読ませるためにどういう構成が必要なのか、つまりぐいぐいと読み手を自分の文章が描き出そうとしている世界に引っ張り込むためには、どのような手順が必要なのかを考えなくなる。サービス精神のない商売と同じことだ。あっという間に客、この場合読者は離れる。

 ではどうすれば最後まで相手を引っぱっていく文章を構成できるか。逆説的だが、冒頭に述べたように、出だしにこだわるのである。特に、最初の3つの文(これを出だし3行と言うが)には最大限の注意を払い、愛情を注ぐのである。理由は三つある。

 漫画だと読者は途中からでも読むが、文章はどんな読者でもまず冒頭を探し、そこから読み始めるものだ。つまり、必ず読者が最初に行う行動に、最高の技を仕掛けられるチャンスであるということ。これが第一の理由。

 もうひとつの理由は、出だし3行に、その稿のメッセージを象徴する情報を載せておくことで、文章の完成度を高く見せる、という効果が期待できるということ。

 最後の理由は、二つ目の理由と背中合わせだが、その稿のメッセージを象徴する文章が書けるということは、その稿のメッセージが、少なくとも書き手の頭の中では簡素に、平明にできあがっているということだからだ。

 実は、三番目の理由が最も重要である。とかく初心者ほど、稿の完成形をイメージしないまますぐ書き出したがる。書いているうちに目的がはっきりして、結論にたどりつくような文だと、それに付き合わされている読み手がたまったものではない。読者は、シノプシスの推敲を共有したいのではなく、その推敲によって生み出された作品の姿を見たいのだ。

 したがって、出だし3行はその稿全体を、つまり文章としての死活を左右する最重要箇所であり、短い時間の中に勝負の結果を内包しているのである。剣術の世界での居合い術がこれに近い。瞬息の間に、もてる技術の全てが交錯し、生きるか死ぬかがはっきりするのだ。




 説明文にも匂いがあり、味覚がある。構成を考えない事実の羅列は金属製スプーンをなめたような無機的な味がする。

 よくできた説明文は懐石料理である。謎の提供があり、山場があり、伏線とその回収があり、カタストロフィーがある。そこからただよう匂いは複雑でいてある種の精神の浄化(カタストロフィー)をもたらす。

 文章力とは構成力のことだ。いや、文章だけではなく、舞台芸術、映画、音楽……いずれも構成力がその魅力の柱となっている。コンテンツ、と呼ばれるものすべて、基本にして極意となるのは、構成力である。それが備われば、説明文にもドラマが生まれるのである。

「雨が降ったのなら、『雨が降った』と書け」
 ロシアの文豪ゴーリキの言葉である。

 華美な修飾語は白々しい。それ以前に肝腎の文意を伝え損なう危険性もある。短く簡潔に書くことが読まれる文を書くコツである。

 ここまではたいていの文章技術の解説本に書いてある。だが、簡明平易は基本だが、それだけでは読まれない。書き手の個性に触れられないからである。

 文章は一方的ではあるけれども会話である。独自の視点と人間性がにじみでると味わいが深まる。
 インターネットと携帯電話の普及で、人々が文章を書く機会が昔に比べて各段に増えた。昔は手紙と日記、どちらも書かない人は、構成力をもった文章を書けなかったものだった。書いたとして、まるでTODOリストのような箇条書きに近いものにしかならなかった。

 ところが、電子メールがインターネットでまず普及し始めると、変換ミスによる誤字脱字は盛大に盛り込まれながらも、人々は自らの意思を文字の形で構成し始めた。それがベースとなったのか、携帯電話にメール機能がつくや、老若男女問わず、日常的に文字に親しみ始めた。

 ブログの発達はこれにさらなる拍車をかけ、今や、さらさらと日本語を紡ぎ出すことは、漢字を手で書けないとしても、日本人としては当たり前の技術になっている。

 日本開闢以来初めて、大部分の日本人が文章に親しみ、日常的に文章をやりとりするようになった、と言える。平安時代の貴族達が文(ふみ)をやりとりするのが当然だったように、現代人はメールをやりとりする。こと文章の世界で言えば、今や日本人総平安貴族化、と言ってもいいような時代になっているのである。

 それだけに、箇条書きに近い文章しか書けないと、人格や能力を疑われかねない。筆慣れしていないと、肩身が狭くなるのである。生活が便利になると、思わぬところでスキルアップが必須の常識となる。


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